K二丁目

本の感想と、日常と。

読書で大切なことは…

この間、社会人になった君は、人並みには本を読むことになると言ったね。それはもっと早くから本を読むようになってほしいと願って、わざわざ書いたわけだけれど、読書をするにあたって知っておいて欲しいことがあるから、今日はその話をしよう。

 

君は読書をするようになると、実は少しショックを受けることになる。君はわりと自分で考えることが好きで、論理的な思考に少し覚えがあることと、なまじ弁が立つこともって、自分の意見を主張することが多いね。一方それが災いして、あまり人の言うことを聞かない。少し社会人らしいいことを言うと、乏しいインプットから、凝り固まったアウトプットばかり出しているというような感じだ。

 

だけれど、自分で本を読むようになると、本に書かれていることは人から言われたわけではないからか、比較的素直に耳を傾けたりする。そして、著者の、自分では遠く及ばない知識・経験を備えた、素晴らしい思想・思考を受け、自分の考えというものが、なんて希薄で幼稚だったのだろうと落ち込むことになる。

 

そうすると次には、そういった著者たちに対して尊敬の念を抱き、若干盲目的な目線で本を読むようになる。そうしていろんな本に出会ううちに、そこに書かれていることを、まるで自分が会得した気になる。しかし、読書で自分が偉くなった気になっては、決していけない。

 

本に書かれていることはあくまでその著者が考えて、言語化したものにすぎず、ただそれをなぞっていただけでは、実は何も成長していないんだ。大切なことは、著者のそこに至った考え方を知り、そして、自分で考えることだ。

 

こんな話は割と当たり前に聞こえるし、事実、いろんなところで見聞きできると思うのだけれど、ショーペンハウアーという哲学者が書いた『読書について』にも書かれているから、少し引用しておこう。

 

その前に、ショーペンハウアーがどういう人かに触れると、彼はドイツに生まれ、1788年から1860年に生きた哲学者だ。仏教の精神やインド哲学に強く影響された思想家であり、その彼の思想は著作を通じて、多くの哲学者や作家に影響を与える。ネガティブな人間で、だれとも結婚せず、生涯独身で一生を終えることも、なんだか哲学者のイメージそのものだね。

 

では『読書について』より、以下抜粋。

 

 

読書は、他人にものを考えてもあることである。本を読む我々は、他人の考えた家庭を反復的にたどるに過ぎない。修二の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

 

これがさっき言った、偉くなったつもりになるな、ということだ。偉大な著者の本を“ただ”読んでも、それはただその人の後をたどっているだけであって、意味のあるものとはいえない。

 

――読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我後れじとばかり、手を出さないことである。

 

偉くなった気になりたいがために、多読に精を出すのは、すっかり道を間違えている。自分で考えることをすれば、その答えを読書に求めるということはしない。読書をしていなくても、鋭い洞察力と、深い思考力を持った人はたくさんいる。

 

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 

時間が有限であることは言わなくてもわかることだけれど、盲目的になっているときは無駄に過ごしているということに気付かない。読書をしようとなったら、数時間はまとまった時間が必要だし、それこそ自分でしっかり考えながら読んでいくとなると、膨大な時間を費やすことになると思う。その時間を、悪書についやしてしまうのは、もったいないね。

 

 

「読書で大切なことは…」で始めたこの文章だけど、言いたいことの一つは、いろいろなことを経験してほしい、ということだ。正直いって、君は経験が豊富ではない。決して年齢のことを言っているわけではなくて、行動力のことを言っているんだ。例えば、君はまだ海外にすら行ったことはないね。今後何回か行くことになるんだけれど、まだパスポートを持っていない君でも、なんとなく海外のイメージはできるだろう。だけれど、それは知識に留まっていて、リアリティのある経験に基づいたイメージではない。

 

まずは自分の、リアリティのある経験をたくさんしてほしい。それを踏まえれば、ショーペンハウアーの言葉を引用しておいても、今の君には多読してほしいのだと、抵抗感なく言うことができる。

 

というのも、君の性格上、本以外の情報に対しては、あまり素直になれない。直接でも動画でも同じなんだけど、人の“口から”発せられた言葉には、その未熟さゆえに屁理屈的な考えが浮かんで、せっかくの言葉も音になって右から左だ。だから、圧倒的に足りない君の知識を補うのは、本以外に最適な方法が思いつかない。

 

だけれど、何度もいうように、想像力のない多読は、意味がないどころかまるで毒のようになってしまう。例えば、統計学は使用するデータ数が多いほどその制度を増すのだけれど、間違った統計資料を集めてしまうと、その答えはまったく違う方向に導いてしまう。リアリティのある経験がなく、ただ知識を集めては、乏しい想像力で結論付けてしまう、あるいはわかった気になるということは、つまりそういう危険性をはらんでいるのだよ。

 

 

社会人になって仕事をし出すと、自分の知らないことにたくさん向き合う必要があるし、およそ答えのない仕事もたくさんするようになる。そして仕事というのは、あたりまえだけど、一人でできることには限りがあって、一人で仕事をすることは、少なくとも企業務めをすることになる君にはほとんどない。そういった中で、ものをいうのはやはり経験だと僕は思う。若い君が、40代、50代の人たちに負けないくらいの力を発揮するには、小手先の何か別のものではなく、40代、50台の人たちに負けないくらいの経験を積むことだ。

 

しかしこういうと、「じゃあ結局年数を重ねるしかないじゃないか」と君は思うだろう。しかしこの経験を加速することができるのが多読であって、知識を得ようとするのではなく、経験を得ようとすることが大事なんだ。

 

少しまとまりに欠けてすまないけれど、とにかくいまはたくさん自分で経験して、そしてたくさん本を読んで欲しい。鍛えられた想像力があれば、きっと読書でいろんな経験ができるはずだ。

 

 

君はめんどうくさがりだから

 

 

めんどうくさがりな君には、といってもそれはつまり僕もなんだけど、ぜひ読んで欲しい本がある。福沢諭吉の『学問のすすめ』だ。

 

少し意外かもしれないけど、社会人になって君は、人並みには本を読むようになる。そして、「もっと前から本を読む習慣があれば」と思うようにもなる。今日は、『学問のすすめ』の、第16編「正しい実行力をつける」について、少し伝えておきたい。

 

この編ではまず、「不羈独立(ふきどくりつ)」という言葉から始まる。不羈独立というのは、何ものにも縛られず、何ものにも助けを借りずに、独力で自分の道を切り開いていこうとすることを指した言葉だ。実行力をつけるには、この独立を意識することが重要だ。

 

この独立なんだけど、福沢諭吉は、本当の独立には品物についての独立と、精神についての独立の、2種類存在する、と言っている。

 

品物についての独立というのは、要するに物欲にまみれずいることだ。独立できていない人は、人の物をみると自分も同じものが欲しくなり、それが手に入ったとおもえば、また別の物が欲しくなって…と、際限なく欲望が膨らむ。例えばファッションでいうと、大学にいけばほら、女子大生なんかは寒いのを我慢してもスカートを履いていたりするだろう。それくらいならまだ支配されている、なんて大げさかもしれないけれど、そんなにお金もないのに高い洋服を買ったり、食費代を削ってまで飾りのスカーフを買ったり、それがエスカレートして分不相応な高いジュエリーやらなんやらを買ったりして…という人は、テレビ番組とかでみたことはあるだろう。こういう物に支配されているような状態は、独立しているとは言えない。

 

これは、人の目を気にして、虚栄心を満たすために周りに流されている、と表現してもいいだろう。人の社会で生きている中では、どうしても他人より優位に立ちたい、という気持ちが、どこかで現れてくる。それはそれで人間らしい姿だし、自然であるとも思えるけど、何かに振り回されている時点で、精神的な独立もそこにはない。

 

けれど、それでは大した人間にはなれないから、さてどうしたものかというと、心と動きのバランスをとることが大事だという。たいていは、心ばかりが高くて、行動のレベルが伴っていない場合が多い。

 

 

もちろん、高いレベルを目指す、高尚な精神というのは大切だ。心が高尚でなくては、行動もまた高尚にはならない。

 

だけど、例えば口だけ達者で、その通りに行動に移せたかというと、実際にはその10分の1も満たせていない、という人がいるだろう。あるいは、心ばかりが高尚であるようなこういった人種は、他人に偉そうなことをいって、批評ばかりしている。 そればかりしていては、まったく大した人物には程遠い。

 

君は12月から就職活動が始まって、やれ説明会だエントリーシートだ、なんて躍起になるんだけど、それも数か月たって選考が進んでいくと、友達との会話は専ら誰がどこの会社の内定をもらっただとか、そういうことばかりになる。

 

自分が本当に行きたい会社なんてものは見つかっていないし、自己分析なんかも全然できていないにも拘わらず、他人が大手の内定をとった、なんて話を聞くと、自分もやっぱりそういった会社を受けるべきなんだろうか、とか、手当たり次第受けてみようか、とか、いろいろとやりもしないことを考えてしまう。

 

そしていつも不平ばかりを言っている。口に出していなくても、それは負け惜しみを言うのが嫌で、心の中では思っていたりする。そんなとき、時代や環境のせいにしてしまう。そういう人は周りからも嫌われて、時には孤立する。心と働きのバランスがとれていないと、人間関係にも影響してくるんだな。

 

何事についても、もしそれに不平や不満があるなら、自分でそれをやってみるんだ。そのときはじめて、ことの重大さや大変さが身に染みて分かるし、心と働きのバランス、というものも分かってくるから。一つ一つ行動を積み上げないと、いつまでたっても変わらないよ。もはや、歳を重ねれば自然に成長するなんて歳ではないんだから。

 

 

 

○○を考えながら生活してほしい(学生編)

 

 

少し書いては間をあけ、また少し書いては間をあけ、を繰り返している。これは一応書き続けているということになるのか、ならないのか、わからないままだけれど、また投稿してみる気になった。

ここからは、学生時代の自分に向かって書くことにする。そう、君のことだ。今は2018年10月23日23:03である。大学を卒業し、会社に入社して、4年が半年前に過ぎた頃だ。どんな生活を送っているのか気になるだろう。細かいことはまた今度にして、少なくとも元気に暮らしているよ。

 

しかし、君の会社の元先輩は元気がないようだ。2年先に入社した先輩は同じ部署で、僕が入社した当時は20代の社員が少ないせいもあって、君は彼を兄のように慕うことになる。

 

その先輩は数か月前に転職し、別の会社に転職した。といっても、住んでいる家は近いままで、それまでと変わらず休みの日もよくご飯にいったり、飲みにいったりしている。

 

そうして先日も一緒に、黄色い看板のラーメン屋にいったんだけど、どうもいつもと先輩の様子が違った。ラーメンなんかすぐに食べ終わって、店の外のベンチに並んで座り、缶コーヒーを飲みながら、一緒にタバコを吸っていた。話をきくと、精神的にまいっていて、休職中なんだという。いつも笑っている先輩だったけど、その日は本当に辛そうな様子だった。今は薬を服用しながら、なんとか日常生活は送れているのだという。

 

それまで君は、精神を患っている人と話す機会があまりなかったし、ましてや身近の人が病んでしまったとあって、少しショックを受ける。そして、なんて声をかけていいのか、迷ってしまうんだ。

 

先輩に対して、僕はいろいろ言っていたと思う。今はとりあえずのんびり過ごせばいいじゃないですか、とか、またこっちの会社に戻ってくればいいじゃないですか、とか。少し前に読んだ自己啓発的な本を思い出しては、身体を動かすとホルモンか何かが分泌されて、精神的にもよくなりますよ、とかも言っていた。

 

それらが先輩の気を少しでも楽にしたかどうか、わからないけど、ありがとうと言ってはくれて、その日は別れた。

 

なんて声をかけてあげればよかったのか、いまだに答がでていない。僕はもうアラサーだし、それなりに社会人としての経験も積んだつもりだったけど、大切な人一人の気も和らげてあげられるほどには、まだまだ足りないものが多かったと実感した。

 

 

 

 

 

 

 

君はこれから就職活動で、どんな会社があるのか、どんな会社に入りたいか、どの会社に入ろうか、どの会社なら内定がもらえるか、こんなことを考える時期に入ると思う。受験期同様、とにかく目の前のことに集中することも重要なことなんだけど、「自分が他の人をどうしたら幸せにできるのか」、この答の出そうにないことを、今のうちから考えて生きてほしいと思う。

 

ああ、それよりも今の君は、どうしたら卒業用件単位をとれるか、に頭がいっぱいだったね。

 

賢いギバー

 

 

『GIVE & TAKE』(2014/アダム・グラント)を読んだ。

 

 

 

▼アダム・グラント

ペンシルバニア大学ウォートン校教授。組織心理学者。1981年生まれ。同大学史上最年少の終身教授。『フォーチュン』誌の「世界でもっとも優秀な40歳以下の教授40人」、『ビジネスウィーク』誌の「Favorite Professors」に選ばれるなど、受賞歴多数。「グーグル」「IBM」「ゴールドマンサックス」などの一流企業や組織で、コンサルティングおよび講演活動も精力的に行う。(本書より)

 

 

人間関係において、人は基本的に三種類のタイプに分けられるという。「ギバー」、「テイカー」、そして「マッチャー」だ。ギバーは他人を中心に考えて、相手が何を求めているかに注意を払う。テイカーは自分を中心に物事を考える。

 

 

マッチャーはというと、公平という観点を重視し、与えることと受け取ることのバランスをとろうとする人だ。すなわち、ギブアンドテイクで行動する人のことを言う。そして、多くの人はマッチャーに属している。

 

 

アダム・グラントの調査によれば、最も不利益を被っているタイプはギバーなのだそうだ。いわゆるお人好しで、人から都合のいいように利用されやすい。短期的にみれば、テイカーやマッチャーのほうが大きな利益を得ている。

 

 

ただ、最も成功や幸福を掴んでいる人もまた、ギバーなのである。

 

 

ギバーは他者に惜しみなく与える。それが助言であれ、人の紹介であれ、相手にとって良いことを行動に移すのである。そしてそれは他の者にも影響を及ぼし、その人のコミュニティに変化をもたらす。長期的にみると、ギバーは組織力の向上に大きな影響を与え、そして正しく評価されたギバーは称賛される。「情けは人のためならず」とあるように、何かを与えたその人からの直接の見返りでなくとも、後で大きな見返りを得ることになるのだ。

 

 

とはいっても、多くの人がマッチャーとしての行動を振舞うのは、「正直者が馬鹿をみる」ことがあるからだろう。ギバーは、テイカーに食い物にされてしまう場合がある。テイカーは打算的で自分の利益を優先するから、自分の周りにギバーがいれば、利用してやろうと考えるのだ。そうなったギバーは、その分自分に費やす時間が減り、成果も低下し、周りからも正しい評価が得られず、不遇をうけることになる。どうすればテイカーから身を守ることができるだろうか。

 

 

本書では以下のように言っている。

 

 

テイカーとつき合うときには、マッチャーになればいいのだ。ただし、最初はギバーでいたほうがよいだろう。信頼は築くことこそ難しいが、壊すのは簡単だからだ。それでも、相手が明らかにテイカーとして行動したら、ギバー、マッチャー、テイカーの三タイプを使い分け、ぴったりの戦略をとるのが得策だろう。”

 

 

 

人に何かをしてあげたとき、喜ぶ姿をみると、自然に自分もうれしい気持ちになる。賢いギバーとして、人生をまっとうしたいものだ。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 

感情は利用するものだった…?

 

先日仏教についての本を読んだとき、「諸行無常」という、すべての物事は因果によって生じている、という考え方を知った。

 

 

この考え方は抵抗感なく受け入れられた。しかし、心理学の本でも読んでみようか、と手にしたアドラー心理学の本では、真逆の考え方が示されていた。それは「原因論」に対して、「目的論」と呼ばれている。

 

“人は原因によって後ろから押されていきているのではなく、目標を設定しそれを追求する、と考えるのです。言い換えると、「どこから」ではなく「どこへ」を問うているのです。”

『アドラー心理学入門』(1999/岸見一郎)

 

感情が原因で行動が結果であるという見方ではなく、ある目的のために感情を「使う」のだという。相手を従わせるために怒りがあるのであって、怒っているから相手を従わせようとするわけではない。同情を引くために悲しみがあるのであって、悲しんでいるから同情を引こうとするわけではないということだ。

感情が自分の中に生まれて、その感情によって行動をするわけではなく、「相手にしてほしい」ことの為に感情を引き起こすのである。

 

この考え方がピンとこないのは、普段聞く言葉とは逆になっているからだろう。「怒りにまかせて…」や、「悲しみのあまり…」と表現するように、感情によって行動が生まれているのだと、自然に思っている人がほとんどではないだろうか。

 

感覚的にわからない時は、落ち着いて考えてみよう。あるケースを想定してみる。

 

――2年前の冬のある日。大学に通うさとみは、朝から憂鬱だった。それは風邪を引いたからでもなければ、腹痛がきていたからでもない。なんとなく、悪い予感がしていたのだ。さとみの悪い予感は過去2回あった。中学時代、部活の大会で決勝戦の前日に感じたとき、高校時代、第一志望の大学の、合否発表の朝に感じたとき。どちらも、後には厳しい現実をつきつけられてきた。しかしその日は、「悪い予感」があるだけで、他には何も特別なことはない。明日も、1週間後にも、特に何も「予定は」していなかった。

そのまま何もなく過ごし、お風呂に入って、さて寝ようかと、TVを消し、暖房にタイマーをかけ、目覚まし時計を確認したそのとき、携帯電話がなる。画面には「裕也」という文字が書かれていた。

電話をとってから10分後、3年間付き合っていたその男性との最後の会話を終えた。さとみの頬には涙がつたい、乾くか乾かないかの時、親友のみな美に電話をしていた。中学時代も高校時代も、そしていまも、いつも頼る人は決まっていた――

 

さて、私に文章力がないことが再確認されたが、まず最後の段落の部分、ここを切り取ってみるとこうなる。

 

彼氏に振られる

→悲しむ

→同情されたい(電話する)

 

これをふつうに想定される因果関係をあてはめるとこうなるだろう。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→悲しむ・・・結果A・原因B

→友人に電話する・・・結果B

 

しかし、目的論にあてはめるとこうなるのである。

 

彼氏に振られる・・・原因A

→同情されたい(電話する)・・・結果A・原因B

→悲しむ・・・結果B

 

ではなぜ「同情されたい」と思うのか。それについては、そもそも人間は他者との関係の中で生きており、同感を求めることは人間の根源的欲求、言い換えると承認欲求が備わっているからだという。

これはアダム・スミスも『道徳感情論』で述べていたことであった。

 

ただここで、「同情される」環境になかったらどうだろうか。先のケースで言うと、つらいとき同情してくれていたみなみがもしいなかったら、そして他に相談する相手もいなかったら、彼氏に振られても悲しみは全くないのだろうか。感覚的には「そんなことはない」と思えるし、自分の経験からいっても、人には打ち明けない悲しい出来事は少なくなかったと思う。

 

生物学的な根拠がありそうだが、この続きはまた今度にしよう。

 

 

 

 

ピクサーから学ぶイノベーションの起こし方

 

近年よく耳にする「働き方改革」は、労働生産性の向上が目的の一つであるが、将来的にはAIによる劇的なIT革命によって、「生産物そのもの」が大きく変わっていくだろうと予想される。すなわち、どのような付加価値を生み出すかに、今までよりも知恵を働かせなければならなくなる、ということだ。

 

とはいえ、それが何か、簡単にわかれば苦労はしない。藁にもすがる思いで手に取った本があるので、備忘録的に書いておく。その本は、『ピクサー流創造するちから』(2014年、著:エドウィン・キャットムル)だ。

 

エドウィン・キャットムルとは

ピクサー・アニメーション・スタジオ共同創設者。ピクサー・アニメーション、ディズニー・アニメーション社長。コンピュータ・グラフィックス分野における功績により、ゴードン・E・ソーヤー賞を含む5つのアカデミー賞を受賞している。ユタ大学でコンピュータ・サイエンスを専攻し、博士号を取得する。

 

本書は、ピクサーの現社長であり創設者であるエドウィン・キャットムルが2014年に書いた書籍である。元々自らがアニメをつくる夢を持ち、その夢を形作ったキャットムルだが、初のロングアニメーション(トイストーリー)が大成功に終わった1991年から1年後、「感動するアニメを造り続けるピクサーを守っていく」という新たに情熱をそそぐ夢を抱き、その苦悩と奮闘する姿が描かれるとともに、守るべき思想や守るための具体的施策が本書に盛り込まれている。

そのうちの一部を、とりあげてみよう。

 

第1章 生命を吹き込む

“クリエイティブな発想において、役職や上下関係は無意味だ。”

“たまたま正方形のテーブルを置いた小さめの会議室でミーティングをしたときに、[中略]そのテーブルではお互いの顔がよく見え、意見交換も自然に活発になり、いつもより相互作用が働いた”

 

会議室に13年間置かれていた長細い会議机が、「全員でミーティングをする」こととは逆のメッセージを発信しており、阻害している要因に気付いた出来事である。役職者用に置かれていた名札も排除し、意見出しの活発化を図った。

 

 

第1章 生命を吹き込む

―ユタ大学とコンピュータ・グラフィックス

“学生は研究室に迎え入れられると、作業スペースとコンピュータをあてがわれ、あとは学生自身の興味に任され、好きなテーマを追求できた。そのおかげで、互いに協力し、支え合う刺激的な環境が生まれ、私はのちにピクサーでこの再現に努めることになる。”

 

キャットムルが入学したユタ大学大学院の研究室での出来事である。テーマを自分で自由に決めることができ、かつ同級生(仲間)も同様な環境にいることが研究の質に大きく影響したそうだ。(同級生のうち、フォトショップ・PDFで知られるアドビを共同設立した者がいたり、オブジェクト指向プログラミング等数多くの分野を開拓した者がいたりと、こうした仲間の存在が重要だったと述べている)

 

第1章 生命を吹き込む

―コンピュータ・アニメーション映画への道

“クラスメイトたちと同じように、私が挑戦した研究が物になったのは、守られ、異種混合で、非常に挑戦しがいのある環境に身を置いていたからだ。実りある実験の場をつくるためには、多様な考えを持った人材を集め、その自主性を後押しすることが必要なことを学部の指導者たちはわかっていた。”

 

第4章 ピクサーらしさ

―いいアイデアといいスタッフ、どちらが大切か

“アイデアをきちんとかたちにするには、第一にいいチームを用意する必要がある、優秀な人材が必要だと言うのは簡単だし、実際に必要なのだが、本当に重要なのはそうした人同士の相互作用だ。どんなに頭のいい人たちでも相性が悪ければ無能なチームになる。”

 

言葉にすると、タイバーシティ&インクルージョン、ということであるが、その言葉を謳う多くの組織は、言葉が先行してしまって、実態が伴っていないことがほとんどではないだろうか。創造性を発揮するために指導者に求められるのは、指示ではなく環境づくりだということがうかがえる。

 

 

第8章 変化と偶発性

―“カールじいさん”の紆余曲折

“苦悶を通じてしか発見はない、だから変化は味方だ―この考え方に不安を覚える人も多いだろう。[中略]失敗したときのコストに比べれば、マイクロマネジメントがもたらす被害ははるかに小さいように思える。しかし、その必要な投資を避け、賭けに負けたことを知られるリスクを恐れてコントロールを強化すれば、創造性を妨げる頭の固いマネージャーに成り下がってしまう。”

日本は特に多いように感じられるが、失敗を極端に嫌うものが多い。それはプライドからくるものだったり、上への「忖度」がそうさせているのかもしれない。

 

第10章 視野を広げる

―(1)全員で問題解決(デイリーズ)

“つくりかけの作品や中途半端なアイデアを人に見せて恥をかきたくないし、監督の前でまぬけなことを言いたくない。そこでピクサーではまず最初に誰もが途中段階の作品を見せ合い、誰もが提案できることを教える。それが理解できると、恥ずかしい気持ちが消え、恥ずかしい気持ちがなくなると、人はもっと創造性を発揮できるようになる。問題解決の苦悩を安心して話し合えるようにすることで、皆が互いから学び、刺激を与え合う。その行為そのものが人間関係を実り多いものにする。”

 

子どもの時ですら、人は恥をかきたくないと思っている。しかし、一方で、信頼のおける友人や家族には、むしろその恥を相談というかたちで積極的に発信することもある。自尊心を傷つけず、自分の信頼を低下させないとわかる場であれば、恥を捨て去り、創造性を発揮することができるのではないだろうか。

 

 

理屈が通じないことを理解できない人

 

最近、転職市場が活発になってきたということを自身の周りをみても強く感じる。私が働いている職場にも中途入社をする人が増えている。自分の課では、上司も含めると、私以外の6名全員が中途入社だ。(再確認して驚いた!)

 

業界や会社によって風土は大きく異なるに違いなく、個人の価値観もまた大きく異なる。新卒で入った会社では、違和感を感じたとしても「まあそういうものか」と自分を納得させることは比較的簡単だ。しかし、今までと別の会社で働くとなると、ある程度社会人経験を積んでいたとしても、そのギャップをなかなか受け入れられない人もいる。

 

この「ギャップを受け入れられない人」の内、一部はその人の主張の強さによって確認できる。自分の理屈が正しいと判断したときに、なんとかこれを通そう、とやっきになるのである。一見冷静に見えて、自分の主張が理解されそうにないと、感情的な面が大きく顔を出す。

 

彼らは、こう思っている。「あの人たちは理屈が通っていない。なぜ自分の主張が理解されないのだろうか。きっと、あの人たちには、その能力がないのだ。日本の悪しき風習で、能力と関係ないことで上に上がった人たちなのだから。」と。まったくそのままではないが、こういったことを口にしていた。その時私が抱いたのは、なんとも嫌な、負の感情であった。

 

ただ、こういった考えを私は否定することができなかった。というのも、私自身似たようことで悩まされていたのだ。(今も別に解消されたわけではない)

そのため、筋の通った強い主張には、おおいに賛同する。が、しかし、上にはなかなか受け入れられないという現実がある。一見理屈は通っていそうなのだから、受け入れられないのは、おそらく感情的な部分によるのだろう。そして私も、内容には賛同しながらも、いざ第三者としてその場を目の当たりにすると、負の感情を抱いてしまった。あれは、いったい何だったのだろうか。

 

その答えがこの本に言語化されていたように感じた。『アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界』(2008年)(著:堂目卓生)

 

『国富論』、もとい「神の見えざる手」という言葉で有名なアダム・スミス。彼は市場の調整メカニズムという一般原理を発見した経済学者であるが、元々は倫理学を研究していた。生涯で出版した書物二つのうちのもう一つ、『道徳感情論』では、社会秩序を導く人間本性を明らかにしようとした。それは、次の文章で始まる。

 

“人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を―それを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらず―自分にとって必要なものだと感じるのである。”

 

人間は利害関係がなくても他人に関心をもち、他人の感情や行為に同感しようとする。この後、私たちが他人も私たちに関心をもつことを知り、それが社会秩序に必要なルールの形成し…という、人間の諸感情と社会秩序の関係性について論じられていく。

 

また、アダム・スミスの考える幸福とは平静と享楽にあるとし、そのために必要なものはこう考えている。

 

“健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何を付け加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮きだっているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。”

 

 

アダムスミスは、健康で、生きていくだけの十分な収入があれば、あとは平静を保つことで幸福につながるとしている。

 

この記事の冒頭の話に戻すと、強い主張をする者、言い換えると「理想に向かい、急激な改革を進めようとする者」は、なぜ困難に思える壁に立ち向かい、時には波風を起こそうとし、平静とは逆に向かうような行動をとるのか。

アダム・スミスは、こういった人たちを「体系の人」と呼び、こう記している。

 

“体系の人は、[中略]自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。彼は、その計画と対立するであろう大きな利害関係、あるいは偏見に対しての何の注意も払わず、自分の計画を完全に、あらゆる細部において実現しようとする。”

 

これはもちろん大きな物(国、政府)を対象としているが、我々の身近に起きているできごとにも当てはまるように思える。すなわち、職場で、改革的主張を行うものは、「あるべき姿」にとらわれて、今の姿、すなわちそこで働いている人の「気持ち」をないがしろにしてしまう傾向があるのである。結果、理解が得られない、つまり「同感」を得られず、自らを不幸にする。

 

私がその「体系の人」の主張を聞いたとき、負の感情を抱いたのは、「いままでのやり方が否認された」と感じた上の人たちの感情、そしてまた「体系の人」が感じた「否認」に同感してしまったからなのだろう。