K二丁目

本の感想と、日常と。

読書で大切なことは…

この間、社会人になった君は、人並みには本を読むことになると言ったね。それはもっと早くから本を読むようになってほしいと願って、わざわざ書いたわけだけれど、読書をするにあたって知っておいて欲しいことがあるから、今日はその話をしよう。

 

君は読書をするようになると、実は少しショックを受けることになる。君はわりと自分で考えることが好きで、論理的な思考に少し覚えがあることと、なまじ弁が立つこともって、自分の意見を主張することが多いね。一方それが災いして、あまり人の言うことを聞かない。少し社会人らしいいことを言うと、乏しいインプットから、凝り固まったアウトプットばかり出しているというような感じだ。

 

だけれど、自分で本を読むようになると、本に書かれていることは人から言われたわけではないからか、比較的素直に耳を傾けたりする。そして、著者の、自分では遠く及ばない知識・経験を備えた、素晴らしい思想・思考を受け、自分の考えというものが、なんて希薄で幼稚だったのだろうと落ち込むことになる。

 

そうすると次には、そういった著者たちに対して尊敬の念を抱き、若干盲目的な目線で本を読むようになる。そうしていろんな本に出会ううちに、そこに書かれていることを、まるで自分が会得した気になる。しかし、読書で自分が偉くなった気になっては、決していけない。

 

本に書かれていることはあくまでその著者が考えて、言語化したものにすぎず、ただそれをなぞっていただけでは、実は何も成長していないんだ。大切なことは、著者のそこに至った考え方を知り、そして、自分で考えることだ。

 

こんな話は割と当たり前に聞こえるし、事実、いろんなところで見聞きできると思うのだけれど、ショーペンハウアーという哲学者が書いた『読書について』にも書かれているから、少し引用しておこう。

 

その前に、ショーペンハウアーがどういう人かに触れると、彼はドイツに生まれ、1788年から1860年に生きた哲学者だ。仏教の精神やインド哲学に強く影響された思想家であり、その彼の思想は著作を通じて、多くの哲学者や作家に影響を与える。ネガティブな人間で、だれとも結婚せず、生涯独身で一生を終えることも、なんだか哲学者のイメージそのものだね。

 

では『読書について』より、以下抜粋。

 

 

読書は、他人にものを考えてもあることである。本を読む我々は、他人の考えた家庭を反復的にたどるに過ぎない。修二の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

 

これがさっき言った、偉くなったつもりになるな、ということだ。偉大な著者の本を“ただ”読んでも、それはただその人の後をたどっているだけであって、意味のあるものとはいえない。

 

――読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我後れじとばかり、手を出さないことである。

 

偉くなった気になりたいがために、多読に精を出すのは、すっかり道を間違えている。自分で考えることをすれば、その答えを読書に求めるということはしない。読書をしていなくても、鋭い洞察力と、深い思考力を持った人はたくさんいる。

 

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 

時間が有限であることは言わなくてもわかることだけれど、盲目的になっているときは無駄に過ごしているということに気付かない。読書をしようとなったら、数時間はまとまった時間が必要だし、それこそ自分でしっかり考えながら読んでいくとなると、膨大な時間を費やすことになると思う。その時間を、悪書についやしてしまうのは、もったいないね。

 

 

「読書で大切なことは…」で始めたこの文章だけど、言いたいことの一つは、いろいろなことを経験してほしい、ということだ。正直いって、君は経験が豊富ではない。決して年齢のことを言っているわけではなくて、行動力のことを言っているんだ。例えば、君はまだ海外にすら行ったことはないね。今後何回か行くことになるんだけれど、まだパスポートを持っていない君でも、なんとなく海外のイメージはできるだろう。だけれど、それは知識に留まっていて、リアリティのある経験に基づいたイメージではない。

 

まずは自分の、リアリティのある経験をたくさんしてほしい。それを踏まえれば、ショーペンハウアーの言葉を引用しておいても、今の君には多読してほしいのだと、抵抗感なく言うことができる。

 

というのも、君の性格上、本以外の情報に対しては、あまり素直になれない。直接でも動画でも同じなんだけど、人の“口から”発せられた言葉には、その未熟さゆえに屁理屈的な考えが浮かんで、せっかくの言葉も音になって右から左だ。だから、圧倒的に足りない君の知識を補うのは、本以外に最適な方法が思いつかない。

 

だけれど、何度もいうように、想像力のない多読は、意味がないどころかまるで毒のようになってしまう。例えば、統計学は使用するデータ数が多いほどその制度を増すのだけれど、間違った統計資料を集めてしまうと、その答えはまったく違う方向に導いてしまう。リアリティのある経験がなく、ただ知識を集めては、乏しい想像力で結論付けてしまう、あるいはわかった気になるということは、つまりそういう危険性をはらんでいるのだよ。

 

 

社会人になって仕事をし出すと、自分の知らないことにたくさん向き合う必要があるし、およそ答えのない仕事もたくさんするようになる。そして仕事というのは、あたりまえだけど、一人でできることには限りがあって、一人で仕事をすることは、少なくとも企業務めをすることになる君にはほとんどない。そういった中で、ものをいうのはやはり経験だと僕は思う。若い君が、40代、50代の人たちに負けないくらいの力を発揮するには、小手先の何か別のものではなく、40代、50台の人たちに負けないくらいの経験を積むことだ。

 

しかしこういうと、「じゃあ結局年数を重ねるしかないじゃないか」と君は思うだろう。しかしこの経験を加速することができるのが多読であって、知識を得ようとするのではなく、経験を得ようとすることが大事なんだ。

 

少しまとまりに欠けてすまないけれど、とにかくいまはたくさん自分で経験して、そしてたくさん本を読んで欲しい。鍛えられた想像力があれば、きっと読書でいろんな経験ができるはずだ。